考えるために歩くということ

ずいぶんとご無沙汰していた、書生である。

 

世の中の梅雨は明けたのだろうか、書生が今年の初めに購入した高機能体重計が示す部屋の温度はなんと平均29度であった。

 

ブラジルW杯では平均30度、湿度60度とテレビで言っていたから、

書生の住む今の部屋は毎年温度だけはブラジル並みと言って良い。

マテ茶でも飲んでみようかな。

 

さて、題名について、である。

 

なにやら書籍のタイトルにありそうな題名である。というのはおいておいて。

 

本日、書生は夕食後、グータラとネットサーフィンをした後に、久しぶりに運動することにした。

ランニングではなくジョギング、それすらも縛ることなく、ともかく体を動かしているという事実だけあれば良い、運動。

狙いとしては、これは運動ではないという意識を持つこと。

というのも、そもそも運動しようと思った理由が、

依然から課題としてあった、脂肪過多な体をしぼるためであるが、

これまでそのための運動が続かなかった理由は、

運動に対してキツい、負荷をかけないといけないという意識を強く持っていたからで、

そもそも歩くだけでも、走っていたとしても、体に負荷をかけるのではなく、それをしながら考えるということをメインに置いて運動すれば、

少なくとも全く運動しないよりは運動をしていることになるし、色々と考える時間もできて一石二鳥かなと思い、書生は3,40分程度、ジョギングをしたり、途中で歩いたりした。

 

この試みをして感じたことは、

 

意外と歩きながら考えるのはいいのではないか

 

ということ。

特に、ただ運動着だけ着て、時計も携帯も持たずに歩いていると、ネットもできないし、本を読む事もできないので、ただ自分の頭で色々と課題とか取り出してそれについて考えを巡らしたりすることになる。

書生の場合は最近勉強している資格勉強で、今日勉強したことを思い出してみて、

ほとんど忘れていることを自覚したり、将来へ向けて今の自分に必要なことを自分なりに考えたりした。

そういった行為は、書生にとって、

自分が今何に向かって歩んでいるのか、どういった目標を持っていたのか、日々の生活はどうかなど、そう、顧みるために必要だと感じた。

 

よく、こういった、自分自身の棚卸しと言われるような行為は、一定期間ごとに振り返ってノートとかに書いたりといったアプローチが多くとられているような気がするが、

これを一人で歩く度に行うことができるのは、体の健康を保つためにも有意義ではないか。

ふと思うのが、例えば何もない部屋でただじっと瞑想するという行為で顧みるよりも、歩くという行為で顧みる方がずっと気軽で実践しやすい。そりゃそうか。

 

で、なんかとりとめもないことを書いてきたが、歩くということと考えるということについて、何か関連があるような気がする。

ジョブズの自伝を読んだときに、ジョブズはよく散歩をすると書いてあった気がする。

我々は基本的に、何か目的地へたどり着くために、普段歩くという行為をしているが、

実は歩くという行為は、物事を考えるためにも行われる行為で、それも実は効果的な手段なのではないだろうか。

 

このように考えている人って結構いるんじゃないかと思い、ぐぐってみたら、

何やら某有名予備校の講師の言葉で、

歩くことは考えること、

というのがあったというページを発見した。

 

これからは何か考える際は歩いてみようと思う。また、歩けば何か考えるのだろう。

ってそれじゃ題名違うか笑

まあ、小さいことは気にしない。ローマは一日にしてならず。